レストラン線画途中

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  • まだあちこち描きかけですけど、体力の限界が来たので今日はここまで。
    線画の抽出って好きです。
    真っ白なキャンバスに線を沢山走らせて、少しずつ削って形にしていく。
    そうやって没頭していくことで、自分と世界を切り離していくような。
    きっと、自分の心にも線を引いている。

    時々、色も光も音も、私を取り巻く全部が牙を剥く。
    私はそれにいちいち傷ついて、足を止めてしまう。
    だから、こうして世界と自分の間に線を引いて、自分の心を逃がしてる。
    そんな気がします。

    これが塗りの作業に入ると、もっと色々なことを考えるので、今度はどうやって線を世界に溶け込ませようかということになります。
    切り離した自分も、そこで少し世界と混ざるのかも。
    そう考えると、これも1つのセラピーみたいな感じなのかなと思います。

    「痛み」について考える

    最近、「無痛~診える眼~」をよく見ています。
    痛みとは何かということを考えさせられるお話ですね。

    学生の頃、「他人の痛みは理解出来るのか」というテーマで議論したことがあります。
    私の答えは「他人の痛みは理解出来ない」というものでした。
    その人が感じているままの痛みは、どれだけ筆舌に尽くしたとして、それは他者には伝わらない。
    もしも誰かの痛みに対して「分かる」と思ったなら、それは他人の痛みによって呼び起こされた、自分の痛みの記憶に反応しているだけなのだ、と。

    たとえば「足の小指を壁にぶつけてすごく痛い」と訴えられた時、私は自分が足の小指をぶつけた時の痛みを想像します。
    そして、「それは痛かったね。お気の毒に」と相手に共感するわけです。
    他人の痛みを理解することはできないけれど、想像によって共感することは可能だと思うのです。

    他人の痛みは理解できないが、痛みという感覚が存在することは理解出来る。
    その感覚を元に、関わりを考えていくことは可能ではないのか。

    そんな感じで議論は終了しました。

    他人の痛みに共感するために、自分の痛みを持ち出すことの危うさについても論じたと思います。
    その辺は時々、忘れがちになってしまうところなんですけれどね。

    私は人と関わる時に、常にそういうことを考えるようにしています。
    誰かの痛みが見えた時、それが果たして自分の痛みでないと言えるのか。
    どんな覚悟でそこに関われるのか。
    もしも不意に自分の中の深い痛みを暴いてしまった時、それを託せる第三者がいるか。
    また、自分の状態を常に冷静な眼で見ることが出来るか。

    それらは自分自身を守る上で、とても大事なことだと思っています。
    でも私はよく考えずに飛び込んでいくことも結構多かったり……。
    もっと冷静になりたいです。

    その辺を踏まえて、いばら君のことを考えると、彼は生まれつき痛みを感じないわけですから、他者の痛みに対しても共感はできないということになるのか……。
    でも、心の痛みはあるんじゃないかなと思います。
    そこが彼にとっての、何か救いみたいなものになればなぁと思いながら展開を見守っています。

    ところで無痛のサトミちゃんって本当に可愛いですね。
    ああいうややこしそうな女の子を見ると守ってあげなきゃって気持ちになってしまう。
    そういう気持ちこそ危険だと分かってはいる……でも可愛いよぅ……